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志布志城跡関連年表

ページID:0001521 更新日:2021年10月11日更新 印刷ページ表示
年代 内容
文治5年(1189年) 安楽平九郎為成に代わり、救仁院平八成直が救仁院地頭弁済使となる
建久2年(1191年) 救仁院平八成直、地頭弁済使職を解任される
建久8年(1197年) 建久図田帳に「島津荘寄郡救仁院90町 地頭右兵衛忠久」とある
文永8年(1271年) この頃、救仁院地頭方沙汰人は図師馬入道道西
正和5年(1316年) 救仁院地頭沙弥蓮正、宝満寺に志布志の地を寄進
元弘元年(1331年) 日向方惣地頭北条守時、救仁院・救仁郷の地頭代官救仁郷資清、宝満寺に土地屋敷を寄進
建武元年(1334年) この頃、救仁郷・救仁院地方は千種忠顕の所領か?
建武3年(1336年) 重久篤兼、肝付兼重の配下が守る志布志城を攻め落とす
暦応3年(1340年) 楡井頼仲、大慈寺を創建
貞和4年(1348年) 楡井頼仲、松尾城(白雉城)で挙兵
観応2年(1351年) 畠山直顕、楡井頼仲の松尾城を攻め落とす
直顕、田浦条と岩広名を大慈寺に寄進
延文2年(1357年) 楡井頼仲、挙兵するも松尾城陥落し、頼仲は自刃する
新納実久、松尾城に入る。内城の畠山直顕、実久を攻めるが、島津氏久が実久を助け、直顕は櫛間に退く
延文3年(1358年) 菊地武光、志布志に進攻し大慈寺に禁札を出す
康安元年(1361年) 島津氏久、大慈寺に岩広名半分を寄進
貞治4年(1365年) この頃、氏久は志布志に居を定める
永和3年(1377年) 氏久、内城より出陣し、都城に今川満範を破る
応永8年(1401年) 櫛間の本田忠親、志布志城を攻め、熊田原兄弟討死(犬之馬場合戦)
応永11年(1404年) 島津元久、日向、大隅の守護職となる
応永16年(1409年) 島津元久、薩摩の守護職となる(以降、島津が三州の守護職を歴任)
文明6年(1474年) この頃、志布志に新納是久及び忠明、肝付に肝付兼忠、救仁郷に肝付主税助、櫛間に伊作久逸及び又四郎
天文4年(1535年) 新納氏は志布志に居城し、梅北・財部・市成・垂水・牛根等を領有
天文5年(1536年) 豊州島津氏忠朝、志布志城を攻める
天文7年(1538年) 新納氏敗れ、新納忠茂は佐土原へ去る。島津忠朝が志布志城に入る
永禄元年(1558年) 肝付兼続、肝付竹友に志布志を攻めさせ、島津方伊藤源四郎と向川原にて戦う
永禄5年(1562年) 豊州島津氏、志布志城を去り、肝付良兼が入城
永禄7年(1564年) 肝付兼続、重臣とともに志布志城に入る
肝付竹友、地頭として志布志城に入る
天正元年(1573年) 末吉の北郷時久と肝付氏が国合原にて戦い、肝付竹友戦死
天正4年(1576年) 志布志地頭肝付兼名、南郷で戦死
肝付兼護の所領は高山のみとなり志布志などは島津所領になる
天正5年(1577年) 志布志に島津氏の初代地頭鎌田政近が入る
天正15年(1587年) 豊臣秀吉の日向国城割により松尾城は廃城の対象に(破壊されず)
元和元年(1615年) 一国一城令発布 この頃には廃城か

(年号は北朝のものを用いた)


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