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志布志城の歴史

ページID:0001520 更新日:2021年10月11日更新 印刷ページ表示

 志布志城の正確な築城年は不明ですが南北朝の時代には松尾城と内城が存在していた事がわかっています。その後、高城と新城が築かれたと考えられています。建武3年(1336年)に、「救仁院志布志城」の肝付氏が重久氏に攻められた記録が残っています。この時の志布志城は、築城時期が最も早いと考えられている松尾城だと思われます。

 その後、正平3年(1348年)に楡井頼仲が松尾城に入っていますが、延文2年(1357年)、大崎胡麻崎城と志布志城を攻略され、宝満寺で自刃したと伝えられています。楡井氏の後は新納氏が松尾城を治めていましたが、志布志内城は新納氏と対立した畠山氏が有していました。この時点で内城と松尾城が存在していた事がわかります。

 新納氏は島津氏久の救援を受けて畠山氏を攻め、志布志内城を占領しました。これにより志布志は島津氏久の所領するところとなりました。氏久が内城に入ったのは貞治4年(1365年)頃と推定されています。

 長禄2年(1458年)以降、日向南部で伊東氏等との合戦が相次ぎ、志布志城は前線の拠点として利用されました。天文5年(1536年)、島津氏内の勢力争いによって志布志城の新納氏は豊州島津氏、北郷氏、肝付氏に三方より攻められて降伏しました。それにより、新納氏は志布志を去り、志布志城は豊州島津氏が治めることになりました。

 その後、永禄元年(1558年)以降、肝付氏が毎年のように志布志を攻め、同5年(1562年)に攻め落とされ肝付氏が志布志城に入りました。その肝付氏も天正4年(1576年)には伊東氏に敗れて勢力を失い、島津氏に降伏しました。同5年(1577年)より志布志は島津氏が領有するところとなり、志布志に地頭が置かれました。以後、大隅における島津氏の支配が安定したために、前線の拠点としての志布志城の役割は低下し、結果として廃城に至ったと考えられています。


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